飛鳥園について

飛鳥園関連人物

會津 八一 あいづ やいち

1881年8月1日~1956年

歌人・美術史家・書家。雅号は、秋艸道人、渾斎。新潟市古町通で生まれる。生年月日の一と八より八一と名付けられる。中学生の頃より『万葉集』や良寛の歌に親しんだ。
東京専門学校高等予科を経て、早稲田大学文学科入学、坪内逍遙に師事し英文学を学ぶ。またわずか三ヶ月の講義であったが、本学に招聘されたラフカディオ・ハーンからは英文学史や詩人キーツのほかに民俗学的観察法を学び、これが後年の美術史学研究に寄与することになる。
會津の美術史学の研究法は独学でマスターしたものだが、学生時代、学友の木内家の名匠のつくる伝統美術品や学芸の人・淡島寒月が教示した奈良美術を知り、また従妹の美術学校生を通じて西洋画や西洋の美術書に接することができ、美術品に対する審美眼・鑑識眼を大いに培うことになった。早稲田大学卒業後、新潟県の有恒学舎の英語教師となるが、書架にはギリシヤ美術史や中国の漢籍・経典が架蔵されていた。漢籍・経典は中国美術や奈良美術研究には欠かせない文献資料で、この有恒学舎時代に會津は着実に美術史研究への道を歩みはじめていた。こうして會津の美術史学は実物作品の研究と文献史料の研究を車の両輪のごとく駆使する学問として確立していくのである。

1908年に最初の奈良旅行をおこなって奈良の仏教美術へ関心を持ち、またこの旅行が俳句から短歌へと移るきっかけともなった。
1910年に坪内逍遙の招聘により早稲田中学校の英語教員となり上京。1914年、東京小石川区高田豊川町に転居し、「秋艸堂」と名付ける。1918年、早稲田中学校の教頭に就任。1922年には東京郊外の落合村にあった親戚の別荘に転居し、やはり「秋艸堂」と名付けた。1924年、初の歌集『南京新唱』を刊行。
1925年には早稲田高等学院教授となり翌年には早稲田大学文学部講師を兼任して東洋美術史の講義を始める。この研究のためにしばしば奈良へ旅行した。1931年には早稲田大学文学部教授となる。
1933年に仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫)が刊行され、この論文で1934年に文学博士の学位を受ける。1935年、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると同時に主任教授に就任する。1940年、歌集『鹿鳴集』を刊行。続いて1941年、書画図録『渾齋近墨』、1942年、随筆集『渾齋随筆』、1944年、歌集『山光集』をそれぞれ刊行。
1945年、早稲田大学教授を辞任。空襲により罹災し、秋艸堂が全焼したため新潟に帰郷。同年7月、養女きい子が病没。
1948年、早稲田大学名誉教授。1951年、新潟市名誉市民となる。同年、『會津八一全歌集』を刊行し、読売文学賞を受けた。
新潟県の地方紙「新潟日報」の題字は会津が揮毫したもの。他にも歌碑など會津の揮毫になるものが各地にある。

浜田 青陵 はまだ せいりょう・本名 耕作

1881年2月22日~1938年7月25日

考古学者。京都帝国大学教授、同大学総長。「日本近代考古学の父」と呼ばれる。
大阪府南河内郡古市村(現,羽曳野市)に生まれた。第三高等学校(現在の京都大学総合人間学部)を経て東京帝国大学で美術史を専攻し、ヨーロッパ留学後、京都帝国大学考古学研究室の初代教授に就任。

考古学にヨーロッパの考古学研究手法を取り入れ、また中国、朝鮮半島を含むアジアの遺跡を調査するなどして、日本の考古学研究の発展に多大なる貢献を果たした。

没後、京都市左京区の法然院に埋葬される。1988年、岸和田市と朝日新聞社の共催により考古学・歴史・美術などの研究に功績を残した人物に授与される浜田青陵賞が設けられた。

内藤 湖南 ないとう こなん・本名 虎次郎

1866年8月27日~1934年6月26日

東洋史学者。京都帝国大学教授。帝国学士院会員。戦前の邪馬台国論争、中国に於ける時代区分論争などで学会を二分した。
1866年 (慶応年間)陸奥国毛馬内村(けまないむら、現・秋田県鹿角市)に生まれる。父・十湾は折衷学派に属していた。
仏教雑誌「明教新誌」の記者を経て京都帝国大学(現・京都大学)、狩野亨吉総長の推薦により同大学教授。
1910年(明治43年) 文学博士。
中国の歴史文化を研究する学者。実証主義に重点を置き、実地検証や原典の解読、文献を収集しての考証など、現実的で実践的な研究方法を重視した。また9度中国に渡り各地を訪問、現地学者や著名人と親交を深め、中国を理解しようとする親中的な姿勢で中国的観点からの研究を目指した。
邪馬台国論争については、白鳥庫吉の九州説に対して、畿内説を主張し、激しい論争を戦わせた。
白鳥とは「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と称された。
晩年は京都府瓶原村(みかのはらむら現在は木津川市)に隠棲し、読書著述の日々を過ごした。
没後、京都市左京区の法然院に埋葬される。

天沼 俊一 あまぬま しゅんいち

1876年8月31日~1947年9月1日

※写真「ある大正の精神」より

建築史家。京都帝国大学教授。
同35年東京帝国大学工科大学建築学科を卒業した。同39年奈良県技師に任じ、古社寺修理技師を命ぜられ、大正5年法隆寺壁画保存方法調査委員を嘱託された。同7年京都府技師に転じ、同8年工学博士の学位を与えられた。

同9年京都帝国大学助教授、兼て京都府技師に任ぜられた。同10年建築史研究のため海外留学を命ぜられ、アメリカ、ヨーロツパ、エジプト及びインドを巡歴して同12年帰朝、同年京都帝国大学教授に任じ、建築学第三講義を担任した。昭和8年朝鮮総督府宝物古蹟名勝天然紀念物保存会委員 同10年重要美術品等調査委員となつた。

同年欧亜各国へ出張、同11年帰朝した。同年退官、京都帝国大学工学部講師となつた。晩年四天王寺の再建に尽力した。その著書、論文は多数にのぼるが、単行図書に「日本建築史図録」「日本の建築」「日本建築」「日本古建築行脚」「坡西土から坡西土へ」「成蟲楼随筆」等がある。
『日本建築史要』 飛鳥園、1926年
出 典:『日本美術年鑑』昭和22~26年版 より

安藤 更生 あんどう こうせい

1900~1970

早稲田大学文学部教授、本名正輝、明治33年、東京牛込に生まれ、大正2年、早稲田中学に入学、会津八一に師事し美術史を学び始む。大正11年、東京外国語学校仏語部を卒業、早稲田大学文学部仏文科に入学、生家を離れて一時、会津八一宅に居す。大正12年、会津八一と共に奈良美術研究会を創め日本美術史の本格的研究に専心、奈良飛鳥園に出居す。

大正13年、学費に窮し早稲田大学を中退、出版業に従事しつつ論文を発表、昭和2年には飛鳥園より著書『三月堂』を刊行、継いで奈良に東洋美術研究会を創設し、同4年には雑誌『東洋美術』を発刊。この年、飛鳥園より著書『美術史上の奈良博物館』を刊行、『東洋美術』4号に「興福寺の天龍八部衆と釈迦十大弟子像の伝来に就て」、『仏教美術』12号に「東大寺要録の醍醐寺本とその筆者に就いて」、昭和5年『歴史と国文学』に「国宝本東大寺要録の書入れに就いて」を発表。また、昭和6年には、春陽堂より著書『銀座細見』を刊行。この年、平凡社に入社、『大百科事典』の審査部員となる。

昭和10年『漆と工芸』408提寺御影堂の研究」、『くらしっく』6号に「唐招提寺御影堂創建に就ての試論」など唐招提寺関係の論文を発表している。昭和12年暮、新民印書館設立準備の業務を帯びて中国に渡り、時に、北支派遣軍に従軍、中国各地を歩き、古蹟保存に尽力、軍部を説き戦火を免しむることあり。昭和13年、新民印書館編集課長に就任、北京に居を定め、以後終戦にて帰国までの間、出版事業を通じて日中文化交流に務めると同時に、「北京人文学会」、「興亜宗教協会」、「北京文化協会」、「在華日本文化協会」、「中国文化振興会」などに参与または設立し、両国文化の相互理解に尽した。一方、昭和15年には、揚州に赴き、鑒眞の遺蹟を探り、以後毎年揚州を訪れ、鑒眞伝の研究に没頭。
昭和21年、早稲田大学講師となる一方、地方史研究に積極的に参加。昭和21年『学会』3の7号に「嶺南の鑒眞」、『綜合世界文芸』3号に「唐の人物画家李湊と鑒眞和上との関係」、『史観』37号に「日唐交通と江浙の港浦・海島」、『古代』7・8合併号に「洛陽大福先寺考」など鑒眞関係の論文を発表、昭和29年には「鑒眞大和上傳之研究」により文学博士となり、同30年、早稲田大学教授となる。その後、昭和33年には美術出版社より著書『鑒眞』を出版、続いて同35年に平凡社より博士論文「鑒眞大和上傳之研究」を印行した。また、近鉄叢書『唐招提寺』に「唐招提寺の建築」を執筆、同寺創建に一説を掲げた。続いて同36年には『大和文華』34号に「唐招提寺御影堂再考」を発表。さらに、昭和37年には数々の論文のなかから奈良関係のものを編んで『奈良美術研究』と題し出版した。この間、昭和33年に『芸術新潮』に発表した「白鳳時代は存在しない」は、後の白鳳論争となって世の注目を惹いた。
一方、かねてより日本にある入定ミイラの研究に志し、日本ミイラの科学的研究に着手した。著書『日本のミイラ』にて広く世に紹介した。 昭和37年9月、早稲田大学海外研究員として西欧を旅行、パリのギメエ博物館、ローマの日本文化会館などで講演、同38年帰国、次いで同年9月には鑒眞和上円寂一千二百年記念訪中日本文化界代表団々長として中華人民共和国を訪問、北京、西安、南京、揚州、抗州、広州などを歴訪、鑒眞記念集会に出席。昭和40年には二玄社より著書『書豪会津八一』を出版。
この他、書道関係の著作も多く執筆。 晩年は多摩美術大学理事を兼任し、新聞、雑誌などに美術、書道、中国関係の論説、随筆を多く執筆。なかでも昭和44年、二玄社より出版した『中国美術雑稿』と没後、中央公論美術出版社から刊行した『南都逍遙』は豊富な体験と愛情によって語られた美術談義である。
出 典:『日本美術年鑑』昭和46年版 より

志賀直哉

1910年、武者小路実篤、有島武郎らと「白樺」を創刊。以降「白樺派」として戦前の小説界を牽引する。異名「小説の神様」。自らを題材に採った告白小説・私小説を中心として執筆。

武者小路実篤

明治43年に友人・志賀直哉らと雑誌『白樺』を創刊し、以後、60年余にわたって文学活動を続けてきた。小説「おめでたき人」「友情」「愛と死」「真理先生」、戯曲「その妹」「ある青年の夢」などの代表作、また多くの人生論を著したことで知られ、一貫して人生の賛美、人間愛を語り続けた。

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